江戸の技術者・平賀源内の部屋
    

 

◎平賀源内の部屋開設しました。

内容は下記となります。

1)  イノベーターとしての平賀源内の再発見!

2)  平賀源内の作品に触れよう!!優れた本や解説も紹介します。

3)  平賀源内ゆかりの地の写真+小文特集(関心を持つ皆さんの便宜のためのビジュアル案内)



◎2015年、漫画版がついに登場です。




 

●amazonh書店の書評で話題沸騰中です。(13件+α)。皆さんはどちらの意見に賛成ですか?「イノベーター平賀源内」―現代に活きるスーパー未来人、起業家、発明家、エンジニアと理科少年としての源内を検証―


書籍タイトル

平賀源内に学ぶイノベーターになる方法

著者・編者・訳者

出川 通

出版社

言視舎

発行年月日

20120926

価格

1575

ISBNコード

ISBN978-4-905369-42-4

版型

四六判並製

頁数

ページ



●奇才、平賀源内の書いたSF冒険小説を自分で読んでみたい・・・・・

言視舎刊:[自由訳]平賀源内作 風流志道軒傳 [単行本]

風來山人(平賀源内) (), イノベーター源内研究会 (編集, 翻訳), 出川 通(解説) ・・・江戸時代の著名なイノベーター平賀源内の初期のSF/冒険・風刺小説の現代訳版です。

http://www.s-pn.jp/archives/432

 

著者・編者・訳者 風來山人(平賀源内)著 イノベーター源内研究会編・訳 出川通解説 

出版社 言視舎

発行年月日 20111220

価格 1575

ISBNコード ISBN978-4-905369-19-6

版型 四六判並製

 

弊社代表の出川はこの本では「解説」を担当してますが、これは香川大学で「21世紀ものづくり源内塾」の講師をしており、そのなかでも平賀源内のイノベーションとのかかわりを講義している関係で解説をまとめとして書かせていただきました。 

 その解説の詳細(自由訳の解説原稿)は以下に公開してあります。源内と風流志道軒伝、またガリバー旅行記との類似性についてはすでに多くの解説がなされております。この解説を書くにあたって多くの先人の貴重な成果を参照させていただいており、個別には名前はあげませんがまずは多くの先人に感謝申し上げます。

解説の性格上多くの評論の内容をまとめて紹介してあるので屋上屋を重ねる点や表現がだぶっている点もあるかと思いますが、小生自身があらためてガリバー旅行記を読み直して感じたこと、イノベータとしての源内について最低限知っておいていただきたい独断と偏見で編集してまとめてみました。

内容については、ぜひ、自由訳の本文を読まれてからご自身で判断されることをお勧めします。 

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解説原稿文(出川 通まとめ)

天才源内の「江戸版ガリバー旅行記」日本SF冒険風刺物語のはしり・・ 

本書は、風来山人(ふうらいさんじん)こと平賀源内(ひらが・げんない)によって書かれた、江戸期のSF的な風刺・冒険物語の傑作『風流志道軒傳』の「自由訳」です。

内容は、主人公・深井浅之進が、仙人にもらった不思議な羽扇の力で、当時の江戸、日本各地の色街漫遊のあと、巨人国、小人国、脚長・手長国など架空の諸国を冒険旅行し、清朝の後宮にもぐりこんだかと思うと、ついには「女護が島」に漂着して女たちのお相手を務める等々……。ストーリーは奇想天外なもので、その面白さ、馬鹿馬鹿しさ、風刺的視点などから、江戸庶民の間で一躍ベストセラーとなり、明治期まで重版が繰り返されたと言われています。のちに「日本版ガリバー旅行記」とか、日本の冒険小説のはしりとも言われようになりました。

ここでは、本書を手に取られた方が時代を超えてより愉しんでいただけるように、作者・平賀源内についての解説と、物語成立の経緯、時代背景などを少し解説させていただきます。

 

●作者・平賀源内について

平賀源内は、けっこう人気者なので、名前は知っているという方も多いと思われますが、その肩書は、本草学者、蘭学者、医者、作家、発明・発見家、事業家、蘭画家、陶芸家……と数多く、日本史上でも数少ないイノベーターとして、天才、異才、異能の人と称されています。イタリアの多芸な天才芸術家レオナルド・ダ・ビンチの江戸版という人もあり、昔から多くの人の関心と興味を引いています。

作家としては、主に戯作や時事評論を風来山人のペンネームで書いています。そのため、平賀源内で著作を探しても分からないという場合もあります。風来山人もけっこう斜に構えた名前ですが、そのほかにも福内鬼外(ふくうちきがい・浄瑠璃作品用)、貧家銭内(ひんかぜにない)など、しゃれているというより皮肉な、人を喰ったペンネームも持っています。

 

源内は、享保十三年(一七二八)、高松藩(香川県)の足軽身分の家の三男に生まれました。父は白石茂左衛門。白石家は元々は信濃国佐久郡(長野県)の豪族でしたが、戦国時代、平賀源心の代に甲斐の武田に滅ぼされ、東北奥州の白石(宮城県)に移り、伊達氏に仕えました。のちに宇和島藩(愛媛県)に移った伊達氏に従って四国へ下り、讃岐志度(香川県さぬき市)に定住しました。

そこで生まれた源内は、二十一歳で家督を継いだ(兄二人は早逝)際に平賀姓にあらため、本名を国倫(くにとも)、通称が元内または源内、号を鳩溪(きゅうけい)としたものです。

幼少の頃、天神様の掛け軸に細工をし、顔色の変化する「お神酒天神」を作成したりして才能の片鱗を見せていたといいます。その評判が元で十三歳から藩医の下で本草学を学び、儒学を学ぶという異例の環境を得て、一七五二年、二十四歳で長崎へ遊学、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学びました。当時の科学・技術の学徒としては、まさに王道を歩んでいたわけです。

留学の後に大坂、京都で学び、さらに一七五六年、二十九歳の時には江戸に出て本草学を学び、漢学を習得したり、二回目の長崎遊学(三十二歳)では鉱山の採掘や精錬の技術を学んでいます。その間、特筆すべきは、いまでいう「博覧会」のはしりを度々主催・開催し、成功していることです。一七六一年、三十四歳の時に、源内は正式に高松藩を辞し、いまでいうとサラリーマンから独立事業者(自営業)となります。その翌年には、出品数一三〇〇を数える、最大規模の物産会を江戸の湯島にて開催しました(後述)。

江戸での知名度も上がり、杉田玄白ら江戸の知識人らと交遊し、幕府老中の田沼意次にも知られるようになっていきます。

この頃源内は神田に住み、風来山人のペンネームでいくつかの作品を書いていますが、評判がよく、熱心な執筆依頼に応えて三十六歳の時(一七六三年)に出版されたのが、本書の原本『風流志道軒傳』です。藩から独立し、活発な活動を始めた頃の、自由で奔放なエネルギーにあふれ、イノベーターとしての活動とともに、しっかりと執筆活動を行なった時期の傑作です。

 

●イノベーターとしての源内

源内は、高松藩を正式に辞した頃、国内外の物産研究に役立つ『禽獣譜』『生植本草』『貝譜』『紅毛花譜』などのオランダの本を入手しています。その後、幕府から「伊豆芒硝御用」を申し付けられ、伊豆の船原温泉近くで芒硝(硝石)の発見・採集に取り組み、芒硝のほか、ミョウバンやコバルトなども発見したと言われています。

翌一七六二年の第五回物産会「東都薬品会」では、出品物を、草木・鉱石・鳥獣・魚介・その他珍品など大幅に拡大し、出品希望者も全国から募集、全国に二十五カ所の諸国物産取次所を設けて、取次所から江戸までの出品物の輸送は主催者負担とするなど、新しいシステムを構築していきます。こうした流通には、日本一の飛脚問屋である京屋弥兵衛が協力、全国規模の物産会となっています。

当時の日本は、薬草や生糸、西洋陶器などを海外から輸入し、その代金として法外な額を金や銀、銅などで支払っていました。いわば「貿易赤字」を垂れ流している状況だったのです。その現状を長崎で知った源内は、わざわざ海外から輸入しなくても国内で調達できるものが数多くあるはずだと考え、それは確信となります。こうした、産業を興して国を豊かにすることが人々を幸福にすること(国益)につながるという思いが、いわゆるイノベータとしての源内の活動の原点となったと思われます。

このころから産業起業的な活動も行ない、四十六歳の一七七三年には秋田藩に招かれて鉱山開発を指導するかたわら、蘭画の技法を伝えたりもしています。秩父においても炭焼き、荒川通船工事の指導などを行ないました。

一七七六年(四十九歳)には、かの有名なエレキテル(静電気発生機)を復元して興業としても一世を風靡しますが、一七七八年、この天才の運命は暗転します。自分の思い違いから二人の男を殺傷して投獄され、翌年獄死、享年五十二歳。杉田玄白らの手により葬儀が行なわれました。ただし、逃げ延びて田沼意次の保護下に天寿を全うしたという説も伝えられるなど、いかにも源内らしいと言えましょう。

 

●夢物語としての『風流志道軒傳』

『風流志道軒傳』は江戸庶民社会の夢物語として評判を呼び、その奇抜な世界のイメージが、錦絵に描かれ、歌舞伎や芝居の出し物に流用され、さらに大衆娯楽街「浅草奥山」の細工出し物「生人形」としてリアルに表現されたりしました。

物語には、当時の江戸庶民にとっては珍しい、あるいは想像もできないような架空の国の人情風物が面白おかしく描写され、それらの話が、講釈師・志道軒の言葉を借りて、調子よく描かれていきます。となると、その志道軒も架空の人物かと思いきや、深井志道軒は実在の人物で、それも源内の師匠だというのですから、この話がさらに不思議なものになっていきます。

当時、自他ともに許す江戸の名物親父・志道軒を主人公に据えたことによって、フィクションとノンフィクションの垣根が消えています。この当時の読者にとっては、のようなほんとの話、あるいは本当のようなの話となって、その面白さは倍増したことでしょう。文中、志道軒こと浅之進を教えさとす仙人が風来山人ならぬ風来仙人だとは、弟子が師匠に説教しているようなもので、これまた人を喰った展開です。

 

物語の主な舞台である一八世紀後半の江戸は、イギリス・ロンドンなどと同様に、商業都市としての密度は世界に類がないほど高く、そこでは庶民が生活を謳歌していました。文化的には爛熟に向かいつつ、政治・社会的には、進歩の止まったような、来るべき変革の時代には遠い、いまだ出口の見えない閉塞的な状況にありました。

そんな時代に書かれた本書は、源内の漢学の素養や、彼がいちはやく欧州の最先端技術を学んだことから生まれたものと推定されます。登場人物の設定といい、旅先の奇想天外な国での主人公の生き生きとした様子といい、まさに閉塞した江戸中期の庶民の要請に合った、夢のある破天荒な展開がうれしいSF冒険小説といえます。

 

●江戸版『ガリバー旅行記』

平賀源内はさまざまな外国の書物を長崎で貪欲に読み、また自費で積極的に購入していたそうです。源内本人のオランダ語はいまひとつだったらしいのですが、多くの長崎通詞と友人でもあり、オランダ語の解釈と翻訳にはあまり問題がないレベルになっていたと推察されます。 そんな中で、たまたまジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』を見る機会を得て、『風流志道軒傳』の筋立ての参考にしたと考えることもできそうです。またそのような指摘をする向きもあります。

しかし、さらにその元をいうならば、平安時代には日本に入ってきていたという中国古代木版画の『山海経・各種奇様盛妖談』等に、本書に出てくるいろいろな人物がすでに登場しています。この本の出版の五十年前にできた絵入りの膨大な百科事典『和漢三才図会』や、女護が島については西鶴の『好色一代男』なども大いに参考になっているはずで、これらが融合しながら影響を与えていると考えるのが自然かと思われます。

 

『ガリバー旅行記』の著者スウィフトについては、源内との共通点や相違点などがよく言われますが、ここで簡単に諸評論の内容の一部を紹介しておきましょう。

ジョナサン・スウィフトはアイルランドのダブリンで一六六七年に生まれました(源内より六十年近く前)。大学卒業後、いろいろな仕事を経て一七一三年にダブリンにある大聖堂の司祭になりますが、その前に宗教界の争いを風刺したいくつかの作品を書いています。五十九歳の時、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』(一七一九年刊)に刺激され、一七二六年(六十六歳)に『ガリバー旅行記』を刊行したといわれています。

源内の『風流志道軒傳』出版(一七六三年)の三十九年前です。その後、スウィフトは七十八歳で亡くなりましたが、その前に『スウィフト博士の死を悼む詩』を書いたり、自分の死亡記事を出したりしています。このあたりは、なにか源内に通じるものを感じさせますが、スウィフトの場合は精神の病によるものと言われているようです。

デフォーの『ロビンソン・クルーソー』も社会風刺小説ですが、スウィフトの『ガリバー旅行記』も、当時の西欧社会を過激に風刺した内容です。源内の『風流志道軒傳』も、自らの立場を重ねて江戸社会を風刺した小説であると見ることもできます。

『ガリバー旅行記』は世界のベストセラーになります。内容は、ガリバーが船医となりオランダから航海に出るたびに船が難破し、一度目はすべてが十二分の一に縮小された「小人国」、二度目の漂着は十二倍に拡大された「巨人国」、三度目の漂流は「空中島」などに、四度目は「馬国」で、そこには人間の姿をした低俗なヤフーがいるというものです。それぞれ、英国の政治や欧州人、学問、人間そのものなどが風刺されます(ちなみに第三話で、ガリバーはちょっとだけ日本にも上陸します。日本も「不思議の国」だったのですね)。

スウィフトと平賀源内との性格、スタンスの共通点を指摘する向きもありますが、その生き方とスタンスはまったく違うのではないかと思っています。それは何人かの方もご指摘されてますが、『志道軒傳』が、読後、至極愉快な気持ちになれるのに対し、『ガリバー旅行記』は、けっこう不愉快で暗い気持ちになるからです。

詳しい解析は専門家にまかせるとして、小生の感想では源内は、本書の執筆ではとにかく楽しんでいるように思えますが、これは源内の人生の大部分について言えることかもしれません。読者のみなさんはどのように判断されるでしょうか。

江戸時代の天才、平賀源内の視点をまずは読んで楽しんでください。

 

●年譜(1)
平賀源内の主なイノベーション(発明、改良開発、事業化)一覧

 

一七五三年(二十六歳)良質の陶土を発見し陶器の製造法を指導

一七五四年(二十七歳)栗林公園内の薬草園で朝鮮人参の栽培に成功

一七五五年(二十八歳) 「量程器」(現在の万歩計)と「磁針器」(現在の羅針盤)を独力で制作

一七五七年(三十歳)      日本初の薬品会(第一回物産会)を江戸湯島にて開催

一七六一年(三十四歳)貝の図鑑作成、芒硝、黄ミョウバンやコバルト発見

一七六二年(三十五歳)湯島での物産会「東都薬品会」開催、出品数一三〇〇種

「土用の丑の日に鰻」広告コピー

一七六四年(三十七歳)秩父で石綿発見、火浣布作成

一七六五年(三十八歳)寒暖計を作れると公言、かんすい石発見

一七六六年(三十九歳)秩父中津川金山事業着手

一七六八年(四十一歳)寒暖計タルモメイトルを作成

一七七一年(四十四歳)大阪で銅銀山(多田鉱山)での水ぬき

一七七三年(四十六歳)秩父で鉄精錬、秋田藩に招かれて鉱山開発の指導、秋田藩士小田野直武らに蘭画の技法を伝える

一七七四年(四十七歳)秩父における炭焼き、荒川通船工事の指導

一七七五年(四十八歳)音羽屋多吉の清水餅の広告コピー

一七七六年(四十九歳)源内櫛の作成とエレキテル(静電気発生機)を復元

一七七七年(五十歳)      エレキテル興業見物料、建築請負事業企画

 

●年譜(2)
平賀源内の主な著作一覧(必ずしも文学作品ばかりではない)

 

一七五六年(二十九歳)俳句同人誌『有馬紀行』刊行

一七六二年(三十五歳)『紀州物産志』

一七六三年(三十六歳)『物類品隲』『根南志具佐』『風流志道軒傳』

一七六五年(三十八歳)『火浣布略説』

一七六七年(四十歳)      大田南畝『寝惚先生』序。『長枕褥合戦』

一七六八年(四十一歳)『痿陰隠逸伝』『菊の園』『三の朝』

一七六九年(四十二歳)『根南志具佐後編』

一七七〇年(四十三歳)『神霊矢口渡』

一七七一年(四十四歳)『陶器工夫書』

一七七四年(四十七歳)『放屁論』。玄白『解体新書』

一七七六年(四十九歳)『力婦伝』『天狗髑髏鑑定縁起』

一七七七年(五十歳)      『放屁論後編』

一七七八年(五十一歳)『菩提樹の弁』『飛だ噂の評』

一七七九年(五十二歳)『金の生木』

(補注と参考記事、図書、WEBなど)